2023年昆明金殿太和宫导游词(六篇)
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昆明金殿太和宫导游词篇一
这段碑文依据史料,叙述了仿湖北武当山始创昆明太和宫金殿的时间、创始人、冶铜为殿、供奉真武金身的道观规模,以及鸣凤山的山势。明万历三十年(1620__年)道士徐正元“叩请云南巡抚陈用宾”,陈用宾会同黔国公沐昌祚、右都督沐睿、御使刘会,同登鸣凤山巅,商定仿武当山中峰兴建太和宫。这与明万历甲辰年(1620__年)正月太和宫创始人陈用宾所撰《鼎建太和宫记》是一致的。舒藻的碑记用白话叙述,通俗易读。陈用宾的碑记文言纪事,不容易读。
舒藻碑文中所说:“其时并建三元、环翠二宫”一段不准确。其实创建太和宫前七年,就已建“环翠宫”。陈用宾撰《环翠宫记》称:“余抚滇之三年,命官于鸣凤山建环翠宫,其中为阁,祀吕师(吕洞宾),殿有二,王、陶天君,何、柳二仙并祀阁上。”陈用宾,福建晋江人,明进士,万历二十一年(1593年)以右佥都御使巡抚云南。陈用宾“抚滇之三年”,即万历二十三年(1595年),他“命官于鸣凤山建环翠宫”。万历三十年(1620__年)“叩请”陈用宾兴建太和宫金殿的“道士徐正元”,就是环翠宫的道士。
正如陈用宾《鼎建太和宫记》所述:“及抚滇之九年”,即万历三十年(1620__年),陈用宾“偕卜胜东城,相度山原间几一舍许无当者,延伫环望,真气英英,连蜷环翠宫左,扪萝视之,适彩雉从中盘起,玉局宛然,无亦光岳之?有待欤?”陈用宾偕沐昌祚、沐睿、刘会等登相度山,卜胜选址,已见山势“连蜷环翠宫左”。这清楚说明,明万历三十年陈用宾为太和宫选址时,已有环翠宫。太和宫金殿、三元宫于明万历三十年(1620__年)动工兴建,“始事竣工,俱以王正之月,甫一载而缮定”。“万历甲辰(1620__年)岁春正月吉旦”,陈用宾撰立《鼎建太和宫记》。
民间传说陈用宾曾在鸣凤山“三遇吕洞宾”,是吕仙引示他鸣凤山是“洞天福地”,所以他“抚滇之三年”即“命官于鸣凤山建环翠宫”,“其中为阁祀吕师”。环翠宫建成后,陈用宾曾撰楹联:
春梦惯迷人,一品朝衣,误了九寰仙骨,鸡鸣紫陌,马踏红尘,军门向那头跳出?
空山曾约伴,七闽片语,相邀六诏杯茶,剑影横天,笛声吹海,先生从何处飞来!
陈用宾身居云南“军门巡抚”,既迷恋官场“一品朝衣”,又向往道教“九寰仙骨”,矛盾的心情,只有请问“剑影横天,笛声吹海”飞来的吕仙人,他该“向那头跳出”?
陈用宾《建太和宫记》开头有这样一段话:“考玄帝天乙之精,乘玄枵当帝座,迹最著于太和,贞观而还,代能尊祀。我成祖文皇帝穆有遐思,式廓其制,千古让隆焉……”说是真武玄帝系“天乙之精,乘玄枵当帝座”,真武神迹,太和山(即武当山)最著名。从唐贞观年间以来,世代尊祀。明成祖朱棣崇信真武,敕令大修武当山,千古隆重奉祀真武。武当山有“真武神,永乐像”的传说,以后天下真武宫都按这“永乐像”塑真武。
明崇祯十年(1637年)金殿移到宾川鸡足山,史志碑记所载是一致的。明崇祯十年(1637年)云南巡抚张凤翮将铜殿移到宾川鸡足山天柱峰。天柱峰为此又称“金顶”。鸡足山铜殿毁于1966年“文化_革命”“扫四旧”期间。张凤翮移铜殿时,太和宫铜殿的基座、下层平台砂石浮雕栏杆未拆,保存至今。
清康熙年间重建鸣凤山太和宫铜殿,“范铜至五百余万之多”(250吨)。1980年清洗铜殿烟尘污垢时,发现铜殿正梁上通体被烟垢覆盖的铭文,梁中间的字被藻井遮盖,我爬上去看是“大清康熙十年岁次辛亥大吕月十有六日之吉平西亲王吴三桂敬筑”。铭文证实清康熙九年(1670年)吴三桂修葺太和宫,重建真武铜殿,铜铸神像,竖“铜幡竿十余丈,亭亭特立”。康熙十年(1671年)十月十六日竣工落成。因吴三桂康熙十二年(1673年)举兵反清,故方志碑记只称“清康熙九年重铸”,回避是吴三桂重铸铜殿。
吴三桂重建真武铜殿后,铸了一口“七星宝剑”悬挂在铜殿内,这就是碑记中所载真武“慧剑高悬,常伏魔而制怪”。吴三桂又将其使用过的一把木柄大刀,重12斤(6公斤)留在太和宫,以炫耀其武威。
铜殿正面,清康熙三十三年甲戌(1694年)云贵总督王继文书悬“南无无量寿佛”铜匾。“无量寿佛”即“阿弥陀佛”,不少人感到疑惑,一代名儒的云贵总督,为什么在真武道宫挂佛教匾?武当山记载,永乐十四(1420__年)武当天柱峰顶建真武铜殿时,峰巅咫尺地盘上已有佛教无量寿佛殿,佛道互不相让。得知建铜殿是圣上旨意,佛家折中,“让地不让佛”,真武殿上挂“无量寿佛”匾,朝拜真武同时,也颂“南无无量寿佛”。鸣凤山太和宫仿武当山中峰兴建,王继文依据武当山典故悬匾。
清道光二十五年(1845年)《重修二天门碑记》记载了清代昆明两次地震的情况:“乾隆年间,滇省地震,星旗救劫,厥有灵徵”。这次地震影响不大。道光“十三年(1833年)七月二十三日,滇地大震,复得殿宇牌坊,客座茶房,震摇摧坏。”太和宫更大的劫难是咸丰年间,太和宫毁于兵燹,三元宫化为灰烬。每一次损坏后,都不同程度地进行了修缮。其中,光绪十六年(1890年)至光绪三十一年(1920__年)前后十五年间,太和宫住持李明清劝募“缙绅王炽、余安转禀督办云南矿物、前巡抚唐公炯,倡铸铜一万斤,并遍约同人,量力捐助。铸造亭子、侍座神像、格扇瓦片,并重修山门、牌坊、殿宇,众作新之。”
太和宫金殿于1950年军事接管,定为“昆明市金殿名胜区”。先后隶属文教局、建设局、文化局、园林局管理。1966年“文化_革命”“扫四旧”期间,各殿泥塑神像被破坏,殿宇坍塌,荒烟蔓草。1968年又将太和宫划属昆明力车胎厂作宿舍,1970年由昆明市城建局收回。
1983年兴建山巅钟楼,保护原昆明城宣化楼之明代永乐大钟。
1983年至1991年,在鸣凤山东面、南面新征土地273亩,兴建占地500亩规模的“昆明园林植物园”。园林植物园分为十二个专类花卉园区茶花园、温室花卉区、杜鹃园、水景园、木兰园、蔷薇园、竹类植物园、裸籽植物区、珍稀濒危植物区、造园示范区、鹦鹉园(盆景区)和雪松草坪园。省、市政府先后投资达800余万元。
为迎接1999年在昆明举办的世界园艺博览会,1997年至1999年,市政府先后在鸣凤山金殿投资20__万元,全面维修太和宫古建筑群,整修钟楼,开辟钟楼旅游服务区,兴建大型观赏温室,新建杜鹃精品园,开发兰圃和蕨类植物园,重建秋园餐厅,改造旅游招待所,重建园内旅游厕所。在金殿自筹资金兴建“中国金殿博览苑”的基础上,进一步开发金殿青铜文化旅游景点……这次整治修建,为太和宫金殿创建四百年来规模最大的一次修葺和兴建。金殿名胜区1999年跻身云南省一流风景名胜区。它是鸣凤山上的最高建筑,登楼四望,视野极阔,是东郊远理想之地。
昆明金殿太和宫导游词篇二
清光緒16年(1890年)舒藻《太和宮の碑記を重修します》は太和宮の創建の歴史を詳しく記録しました。前明万暦壬寅年(1620__年)、道士徐正元は雲南省を巡撫して公共賓館を撫でるようにお願いしました。貴州国公沐公昌皇帝と一緒に、右都督は公叡に浴し、御使劉公会は山の頂に立ち、湖広武山七十二峰の中で紫禁城を修築し、銅を殿にして、真武祖の金師を鋳造しました。名其宮は太和と言い、武を模した山峰宮の名もある。当時は三元、環翠二宮を建立しました。聖神仙仏はそれぞれ専門司があります。その殿宇は、すべて「太和宮」で統括しています。その地の左挹華山の秀、金馬の騰輝;右は昆海の浜に臨んで、碧鶏の煥彩、実に雲南南の一勝境です。郷人称は金殿、或いは金頂といい、その信心に任せて耳から出ます。」[3]
この碑文は史料に基づいて、湖北武当山が昆明太和宮金殿を創始した時、創始者、銅を殿にして、真武金身を祭る道観の規模と鳳山を鳴らせる山勢をまねることを述べました。明万暦三十年(1620__年)の道士徐正元は「雲南省を巡撫して陳用賓客を撫でるように」と言って、陳用賓客会は貴州国家公が皇帝に沐浴し、右都督は叡、御使劉会を沐浴し、鳳凰山の山頂に登って、武当山峰を模して太和宮を建設することを約束しました。これは明万暦甲辰年(1620x__)正月太和宮創始者陳用賓が著した「鼎建太和宮記」と一致しています。舒藻の碑記は白話で述べられ、通俗的に読みやすい。陳用宾の碑文は文語録で、読みにくいです。
舒藻の碑文の中で言います:“その時そして3元を建てて、環翠の2宮”の1段は正確ではありません。太和宮を創建した七年前には、すでに「環翠宮」が建てられていました。陳用賓の『環翠宮記』は、「余撫滁の三年間、鳴鳳山に環翠宮を建てることを命じる。その中には閣として呂師(呂洞賓)を祭り、殿には二、王、陶天君、何、柳二仙を祭る。」陳用宾、福建晋江人、明進士、万暦二十一年(1593年)は右に都御使を付けて雲南を巡撫します。陳用宾は「溿之三年を撫でる」ということです。即ち、万暦二十三年(1595年)、彼は「命官于鳴鳳山建環翠宮」です。万暦三十年(1620__年)に「サジダ」という陳用賓客が太和宮金殿を建設した「道士徐正元」は環翠宮の道士です。
陳用賓の『鼎建太和宮記』のように、「及び溿溿を撫でる九年」、即ち万暦三十年(1620__年)、陳用賓客は「偕に東城を占って、相度山原間几一は当を得ない者を捨てて、立ち止まって見渡すと、真気英英、連蜷環翠宮左、手を巻いて見て、適彩雉は中盤から玉局の光岳がないか?」陳用宾は皇帝に偕に沐浴し、叡に浴し、劉会などは相度山に登って、場所を占って、すでに山勢の「連蜷環翠宮左」を見ました。これははっきりと説明しています。明万暦三十年の陳用賓客は太和宮の所在地を選んだ時、環翠宮にすでにありました。太和宮金殿、三元宮は明万暦三十年(1620x__)に着工して建設されました。「万暦甲辰(1620 x__)春正月吉旦」、陳用賓館が「鼎建太和宮記」を作った。
民間の伝説の陳用宾はかつて鳳山の“三遇呂洞賓”を鳴らして、呂仙が彼を導いて鳳山を鳴らすのが“洞天福地”なことを示して、だから彼の“溿之三年を撫でる”はつまり“命官は鳴鳳山で環翠宮を建てます”、“その中は閣のために呂師を祭ります”。環翠宮が完成した後、陳用賓はジャカランダを作ったことがあります。
春夢は人を魅惑することに慣れて、1品の朝の服、9世の仙骨を誤って、ニワトリは紫の陌を鳴いて、馬は紅塵を踏んで、軍の扉はあちらの端に向って跳び出しますか?
空山はかつて伴侶を約束して、7閩片語、六詔のお茶を誘って、剣影の横天、笛の音は海を吹いて、先生はどこから飛んできますか?
陳用宾は雲南の「軍門巡撫」に住んでいます。官界の「一品朝衣」に夢中になり、道教の「九万仙骨」に憧れています。矛盾した気持ちは「剣影横天、笛の音が海を吹く」ことを聞いただけです。
玄帝の天乙の精を試験して、玄を乗って帝の席になって、跡は太和を最も著して、貞観は返して、代は尊ぶことができます。私は祖先文学の皇帝となりました。ムーには思いがあります。式廓その制度は、千古に隆焉を譲られました。真武玄帝系の「天乙の精、乗玄非常に帝座」と言われています。真武の神跡、太和山が一番有名です。唐の貞観の年間から、代々祭る。明成祖の朱山吹は真武を尊信し、大武当山を勅命し、千古には厳かに真武を祭る。武当山には「真武神、永楽像」という伝説があります。その後、天下の真武宮はこの「永楽像」を押して真武を作ります。
明崇禎十年(1637年)金殿は目的川鶏足山に移りました。史志碑記に載せられているのは同じです。明崇禎十年(1637年)雲南巡撫張鳳鳥は銅殿を賓川鶏足山の天柱峰に移しました。天柱峰はこれを「金頂」ともいう。鶏足山銅殿は1966年の「文化_革命」「四旧掃除」期間に壊されました。張鳳鳥は銅殿を移す時、太和宮銅殿の土台、下層プラットフォームの砂石レリーフの欄干は取り外されず、今まで保存されています。
清康煕年間に鳴鳳山太和宮銅殿を再建し、「范銅から五百万円余り」(250トン)。1980年に銅殿の煙と塵の汚れを洗う時、銅殿の正梁の上で全体体が煙の垢に覆われている銘文を発見して、梁の中間の字は藻井に覆い隠されて、私は登ってみます。銘文は清康煕9年(1670年)呉三桂が太和宮を修理し、真武銅殿を再建し、銅は神像を鋳造し、「銅の幡竿十余丈、亭亭特立」を立てたことを確認しました。康煕十年(1671年)十月十六日に竣工します。呉三桂康煕12年(1673年)に兵を挙げて反清したので、方志碑記は「清康煕9年再鋳」と称し、呉三桂重鋳銅殿を回避した。
呉三桂は真武銅殿を再建した後、「七星宝剣」を鋳造して銅殿内に吊るしました。これは碑記に載せられた真武「慧剣高懸、常伏魔而製怪」です。呉三桂はまたそれを使ったことがある木柄の太刀を、重さは12斤(6キロ)で太和宮に残して、武威を誇示します。
銅殿の正面、清康煕三十三年甲戌(1694年)雲貴総督の王継文書は「南無量寿仏」の銅額を懸けています。「無量寿仏」は「阿弥陀仏」というもので、多くの人が疑問に思っています。一世代の名儒の雲貴総督は、なぜ真武道宮に仏教の額を掛けたのですか?武当山によると、永楽十四(1420__年)の武が天柱峰の頂に真武銅殿を建てた時、山頂付近の地盘にはすでに仏教の無量寿仏殿がありました。銅の殿を建てるのが聖上の意図なことを知っていて、仏家の折衷、“譲ります仏陀”、真武の殿の上で“無量の寿仏”の額を掛けて、真武に礼拝しますと同時に、“南無量の寿仏”をも賛美します。鳳山の太和宮は武をまねて山中の峰に建設して、王継文は武当山の典故によって額を掛けます。
清道光二十五年(1845年)の「二天門碑記の修繕」は清の昆明の二回の地震の状況を記載しています。今回の地震はあまり影響がありません。道光「十三年(1833年)七月二十三日、溿地大地震があり、殿宇鳥居、客席茶房を回復しました。揺れで壊れました。」太和宮の更なる災難は咸豊年間で、太和宮は兵禍に倒れ、三元宮は灰になった。破損するたびに、ある程度の修繕が行われました。その中で、光緒16年(1890年)から光緒31年(1920__年)までの15年間、太和宮住職李明清は「貴紳王灼、余安転稟監督雲南鉱物、前巡撫唐公炯、銅貨1万斤の鋳造を提唱し、同人を通じて助成した。あずまやや、お侍座の神像、扇瓦を鋳造して、また山門、鳥居、殿宇を修築して、みんなが新しいのを作ります。
太和宮金殿は1950年に軍事的に接収され、「昆明市金殿名勝区」と定められました。前後して文教局、建設局、文化局、庭園局に属して管理します。1966年「文化_革命」「四旧掃除」の間に、各殿の泥塑神像が破壊され、殿宇が崩れ落ち、荒煙蔓草が発生しました。1968年にまた太和宮を昆明力タイヤ工場に属して寮を作って、1970年に昆明市城建局から回収します。
「四人組」を粉砕した後、年々古い建築を修復し、雷神殿、老君殿、三豊殿を再建し、三つの天門、格子星門を修復し、長い回廊亭台を新築し、部分的に明代城壁を補修します。1983年に山頂の鐘楼を建てて、元の昆明城宣化楼の明代永楽大鐘を保護します。
1983年から1991年まで、鳳凰山東面、南面で新しく273ムーの土地を募集し、500ムーの規模の「昆明園林植物園」を建設しました。庭園植物園は12種類の専用花卉園茶花園、温室花卉区、ホトトギス園、水景園、木蘭園、バラ園、竹類植物園、裸種植物区、珍しい絶滅危惧植物区、造園模範区、オウム園(盆栽区)と雪松芝生園に分けられます。省、市政府は相前後して800万元余りを投資しました。
1999年に昆明で開催された世界園芸博覧会を迎えるため、1997年から1999年にかけて、市政府は前後して鳴鳳山金殿に20万元を投資し、太和宮古建築群を全面的に修理し、時計台の観光サービスエリアを開拓し、大型観賞温室を建設し、ホトトギス精品園を新築し、蘭園と蕨類植物園を開発し、秋園レストランを再建し、観光接待所を改造し、園を再建しました。観光トイレです。金殿自己資金で「中国金殿博覧苑」を建設した上で、さらに金殿青銅文化観光スポットを開発しました。今回の整備整備は、太和宮金殿のために四百年来最大規模の改修と建設を行いました。金殿名勝区は1999年に雲南省の一流の景勝地に入りました。それは鳳山の上の最高の建物で、楼に登って四方を眺めて、視野はきわめて広くて、東郊の遠い理想の地です。
昆明金殿太和宫导游词篇三
昆明地处云贵高原中部,位于东经102度10分至103度40分,北纬24度23分至26度22分,东西最大横距140千米,南北最大纵距220千米,城区距首都北京2100千米(航空线),南达中越边境515千米,西抵中缅边境876千米,西南至中老边境906千米。昆明地理位置属北纬亚热带,然而境内大多数地区夏无酷暑,冬无严寒,具有典型的温带气候特点,素以“春城”而享誉中外。景观:西依西山之畔,是游览观光的理想之地。昆明周围,东有二碑,千佛塔,阿庐古洞,彩色沙林,南有抚仙湖,星云湖,九龙池,通海秀山;西有安宁温泉,禄丰古生物化石遗址;北有武定狮子山,禄劝彝文摩岩石刻。可为景点多矣,其中滇池和路南石林均为国家重点风景名胜区。
【行政区划】
昆明市下辖6区、4县、3自治县、1市:【主城区:盘龙区、五华区、西山区、官渡区、呈贡区、】、【副城区:富民县、嵩明县、宜良县、安宁市、晋宁县】、【远郊区县:东川区、寻甸县、石林县、禄劝县】。(数据:20__年)
①主城区
五华区,总面积397.86k?,总人口855521人,下辖10个街道办事处。区人民政府驻华山街道。
盘龙区,总面积345.83k?,总人口809881人,下辖10个街道办事处,2个镇。区人民政府驻拓东街道。
官渡区,总面积634.96k?,总人口853371人,下辖10个街道办事处。区人民政府驻关上街道办事处。
西山区,总面积791.14k?,总人口753813人,下辖10个街道办事处。区人民政府驻西苑街道。
呈贡区,总面积461.00k?,总人口310813人,下辖10个街道办事处。区人民政府驻龙城街道。
以上五个市辖区为昆明市的主城区,即市内五区。
以下是四个行政辖区范围:
五华区辖北门、虹山、西站、华山、武成、西坝、大观、崇仁、莲华、新村、长春、小南、南强、黑林铺14个街道办事处和厂口乡、沙朗白族乡。
盘龙区辖环城、珠玑、东华、董家湾、拓东、联盟、茨坝、龙泉8个街道办事处和小河、双龙、双哨3个乡。
官渡区辖关上、金马、东站、太和4个街道办事处,大板桥、小板桥、官渡3个镇,小哨、矣六、六甲3个乡和阿拉彝族乡。
西山区辖棕树营、马街、金碧、土桥、永昌、福海、前卫7个街道办事处,碧鸡、海口2个镇,团结彝族白族乡、谷律彝族白族乡。
②副城区
富民县,总面积993k?,总人口145554人。下辖1个街道办事处,5个镇,县人民政府驻永定街道。
嵩明县,总面积1357.29k?,总人口287095人。下辖1个街道办事处,3个镇,县人民政府驻嵩阳街道。
宜良县,总面积1873k?,总人口419400人。下辖2个街道办事处,3个镇,2个乡,县人民政府驻匡远街道。
安宁市,总面积1313k?,总人口341341人,20__年gdp120.62亿元。下辖9个街道办事处,市人民政府驻连然街道。
晋宁县,总面积1236.37k?,总人口283784人。下辖1个街道办事处,4个镇,2个乡,县人民政府驻昆阳街道。
③远郊区县
东川区,总面积1858.79k?,总人口271917人。下辖1个街道办事处,6个镇,1个乡,区人民政府驻铜都街道。
寻甸回族彝族自治县,总面积3598k?,总人口457068人。下辖1个街道办事处,9个镇,4个乡,县人民政府驻仁德街道。
禄劝彝族苗族自治县,总面积4234.78k?,总人口39万人。下辖1个街道,9个镇,6个乡,县人民政府驻屏山街道。
石林彝族自治县,总面积1725k?,总人口24万6220人。下辖1个街道办事处,3个镇,1个乡,县人民政府驻鹿阜街道。
④托管区域
下列区域不由所属行政区域直接管理,而直接由市政府派出机构管理,级别与区县同级,并建有公安局,环保局等行政机构。
国家级昆明高新技术产业开发区(高新区),1992年8月成立,管理呈贡新区马金铺街道办事处75%的区域及五华区人民西路以北,昌源路以东,海屯路以南,二环快速以西的八个社区。
国家级昆明经济技术开发区,1992年5月成立,管理官渡区小板桥街道经济园社区、阿拉街道办事处及呈贡新区洛羊街道办事处。
国家级滇池旅游度假区,1992年10月成立,管理西山区盘龙江以西,广福路以南,船房河以东前卫街道办事处的4个社区,福海街道办事处的4个社区的部分区域,以及呈贡新区的大渔街道办事处。
空港经济区,20__年成立,管理官渡区大板桥街道办事处。
倘甸产业园区轿子雪山开发区,20__年成立,管理东川区红土地镇、舍块乡,禄劝县的转龙镇、雪山乡、乌蒙乡,以及寻甸县的倘甸镇、凤合镇、联合乡、金源乡等共9个乡镇地区,辖下94个村民委员会,面积1837.54k?,人口约22.3万人。
阳宗海风景名胜区管理委员会,20__年7月成立,管理阳宗海周边的呈贡区七甸街道、宜良县汤池街道、澄江县阳宗镇共38个村委会(社区),总面积546k?,人口9.5万人。
海口新区,20__年2月28日成立,管理西山区海口街道。
泛亚科技新区,20__年4月15日成立,管理五华区黑林铺街道、普吉街道。市行政中心驻呈贡区吴家营街道。
【历史沿革】
名称由来:昆明(kūn míng),括号中为汉语拼音;昆明(ㄎㄨㄣˉㄇㄧㄥ?),括号中为注音符号或注音字母。
“昆明”一词作为地名,在唐代以前很难稽考。关于“昆明”一词的起源,有多种说法,大多数学者认为,“昆明”最初是我国西南地区一个古代民族的族称。“昆明”在中国古代文献中写作“昆”、“昆弥”或“昆淋”。早期并非城市名称,而是居住在中国西南地区即今日的云南西部、四川西南部的一个古代民族的族称。
见诸记载,“昆明”一词的出现,可追溯到汉武帝时期。当时的著名史学家司马迁在《史记·西南夷列传》中写道:“西自同师(今保山)以东,北至叶榆,名为?、昆明、皆编发,随畜迁徙,毋常处,毋君长,地方可数千里。”由此可见,“昆明”一词是古代云南一个少数民族的族称。
“昆明”作为地名出现,则是在唐代。“武德二年,于镇置昆明县,盖南接昆明之地,因此为名。”按此处置昆明县,非今之昆明,乃四川定笮镇(今盐源县境)。唐代为什么把定笮镇命名为“昆明”,记载当中已写得很清楚,系它接近昆明之故。此处昆明仍指昆明族而言,盖汉唐以前,昆明族大部定居云南西部地区。直到南诏、大理国时期,乌蛮、白蛮兴起,昆明族居住的地方,为乌蛮、白蛮据有,昆明族才东迁滇中,聚居于滇池周围。宋宝佑二年(1254年),元灭大理,在鄯阐设“昆明千户所”,“昆明”始作为地名出现,延续至今。“昆明”一词的含义,晋常琚解释说:“夷人大种日昆,小种日叟。”这句话可解释为人口众多的昆明族。
【历史文化】
昆明具有悠久的历史、灿烂的文化,是国务院公布的首批24个历史文化名城之一,拥有2200多年的建城史,滇池地区拥有3020__年的文明史。约3万年前,即有人类生活在滇池地区。战国至东汉初,滇池周围的“滇人”建立滇国,创造了独具特色的“滇文化”。公元前120__年,西汉设益州郡,将滇池地区纳入中原王朝版图。公元765年,南诏国筑拓东城,为昆明建城之始。大理国时称鄯阐城。拓东城、鄯阐城分别为南诏国、大理国的东京。1276年,昆明设中庆城,首次成为省会。明代,大量移民进入云南,昆明汉族人口首次超过本地土著居民。明末清初,李定国等农民起义军、永历帝、吴三桂先后在昆明或建立政权、或建立皇宫。1920__年的“重九起义”,推翻了清朝在云南的统治。1920__年,昆明自辟为商埠及1920__年滇越铁路的修通,使昆明成为一个开放城市。1920__年,昆明爆发“护国首义”,全国响应。1920__年,设云南市政公所,为昆明设市的发端。1920__年改设昆明市政公所。1920__年8月1日,成立昆明市政府。抗战时期,昆明成为支撑中国抗战的经济、文化、军事重镇之一,成为著名的“民主堡垒”。1949年12月9日,昆明和平解放。
【建制沿革】
远古:数万年前昆明人的祖先就已在这一带过着茹毛饮血、穴居野处的原始生活。约四千至七千年前,滇池一带已有了定居的农业民族,从事“刀耕火种”的原始农业和狩猎、饲养畜禽等多种经营活动,并已能纺纱、织布。滇池地区和稻谷种植至今至少已约有数千年的历史。
青铜器时代滇池地区各氏族部落,以叟族为主,属氐羌族语系。氐羌,是中国古代分布在陕西、甘肃、青海、四川到云南北部一带的古老游牧民族。其中一部分从越西(今四川越西)渡金沙江而南进入滇池地区,与当地傣僮语系氏族“蒲”、“僚”等部落相融合,共同促进了滇池地区的开发和发展。
公元前三世纪(纪元前298~277年间),楚国大将庄?率众入滇,抵滇池地区,与当地的叟族部落联盟,建立了以叟族为主的“滇国”,自称“滇王”,其故城在今晋宁县晋城镇。“庄开滇”带来了楚国和中原内地先进的文化、技术,对促进当时以滇部落为主的滇池地区的政治、经济发展有一定的积极作用。
西汉王朝建立后,积极谋求对“西南夷”地区的开发。公元前120__年(西汉元封二年),汉武帝征发巴蜀地区士卒,滇王被迫归降。汉王朝以滇池地区为中心设置了益州郡,郡治与滇王驻地同在今晋城附近。郡下设县:昆明为谷昌县,昆阳为建伶县,晋宁为滇池县,安宁为连然县,富民为秦臧县,宜良为昆泽县,把中央集权的郡县制度推行到了西南边疆,标志着古代云南接受中央王朝直接统治的开始。郡县制度的施行,有力地促进了滇池地区奴隶制社会的解体。汉族移民和中原内地先进技术、文化的传播,使滇池地区的经济发展达到了一个新的水平。蜀汉诸葛亮平定南中后,改益州郡为建宁郡,“郡治仍益州郡之旧”,任用“大姓”为地方官吏,实行促进民族团结的政策。
公元271年(晋武帝泰始七年),晋王朝把南中四郡(建宁、云南、永昌、兴古)从益州(治成都)分划出来,设立宁州,与益州同列,为全国十九州之一。东晋以后,“方土大姓”爨氏势力逐渐强盛,成为滇中地区的统治者。公元339年(成帝咸和十四年),晋王朝封爨琛为宁州刺史,并承认其世袭地位。到梁末隋初爨瓒、爨震时代,滇池地区已是“户口殷众,金宝富饶”、“多骏马、犀象、明珠”,成为当时西南在经济上较为繁荣和富庶的地区。
公元620__年唐王朝建立,先后在云南设置了九十二州。滇池地区为九十二州的主要部分。公元620__年(唐高祖武德元年),唐朝任命爨氏子孙爨弘达为昆州刺史,治理属县,治所仍设在益宁城。唐代中叶,蒙氏势力在洱海地区崛起,建立南诏国。公元746~747年,蒙氏皮罗阁进兵安宁,攻灭爨氏。公元765年,蒙氏阁逻风(南诏国国王)命长子凤迦异于昆川(今昆明城区一带)置拓东城,并令其驻守。拓东城就成为了当时南诏国的东部重镇。拓东城的开辟,为古代昆明的城市发展奠定了基础,并发展成为南诏的第二政治、经济、军事和文化中心,往来广西、贵州和安南(今越南)的重要通道,在当时大西南的社会经济发展和与东南亚的国际交往中占有重要的地位。
公元937年,大理段氏夺取南诏政权,建立大理国,统一了云南,在拓东城的基础上设鄯阐府,为大理国八府之一。府治沿袭拓东城。段氏政权在其内部经历了较剧烈的社会变革,释奴隶,免徭役,进一步瓦解南诏的贵族统治,解放了社会生产力。鄯阐府的城市规模进一步扩大,繁华的市中心逐渐移至盘龙江以西(今金碧路、三市街)一带,大理国国主也经常驻节于此。段氏统治者在鄯阐营造宫室园林,兴修水利,到大理国末期,鄯阐城已发展成为滇中一座“商工颇众”的繁华城市。
公元1253年(元宪宗三年),元军攻占云南。1276年(元世祖至元十三年),赛典赤主滇后,把军事统治时期所设的万户、千户、百户改为路、府、州、县,正式建立云南行中书省。置昆明县,为中庆路治地(昆明命名即始于此),并把行政中心由大理迁到昆明。自此,昆明”也正式作为全省政治、经济、文化的中心。元朝统治时期,经过初期的军事掠夺和民族镇压之后,逐渐代之以定赋税和改善民族关系的政策,并大兴民屯,整修水利,订立租赋,免除徭役,“开云南驿路”,“驰道路之禁,通民往来”。元朝官吏在昆明地区挖海口河,疏通螂螳川,降低了滇池水位,不仅解除了昆明城市的水患,还“得壤地万余顷,皆为良田”,扩大了农田面积。并修金汁河、松花坝,引盘龙江水灌溉滇池东岸农田;还从内地引进养蚕技术,发展丝织业,使农民和手工业者“收利十倍于旧”,使滇池地区的政治经济在元朝中期有了新的发展。公元1381年(洪武十四年)明朝进军云南后,改元代“路”一级行政区划为府,仿内地建制,设置云南承宣布政使司和都指挥使司。
到了清朝后期,自鸦片战争,特别是1885年(光绪十一年)中法战争以后,法、英等帝国主义势力迅速侵入云南。1920__年(光绪三十年),清朝把昆明辟为商埠。1920__年(宣统二年),滇越铁路修通昆明。进一步加强了昆明作为全省商业、贸易中心的经济地位和交通枢纽地位。1884年(光绪十年)创立的云南机器局,成为昆明近代工业的开端。之后,造币厂、制革厂、官印局、电报局、邮政局等官办企业也应时而生。1920__年(光绪廿六年),昆明开始出现商办企业。1920__年(光绪三十四年),滇池出现小火轮,市内也开办有“人力车公司”。到1920__年(宣统三年),全市已有火柴、面粉、玻璃、香烟、五金、制茶、皮货加工、西药加工、火腿罐头等十多种行业,最多的为火柴业,已有厂商四家。此外,还有四十三处煤、铅、铜、铁、碗花(钴)等矿产的小规模开采。1937年抗日军兴,外地的工厂、学校内迁,大量的资金、设备和人材流入昆明,促进了昆明经济的短暂繁荣。国民党中央和云南地方的官僚资本纷纷在昆明设置和开办工厂企业,如中央机器厂、炼铜厂、电工厂、发电厂、53兵工厂、电力制钢厂、纺纱厂、烟厂等相继建立。
1950年2月24日,云南和平解放。
昆明市气候概况
昆明地处低纬高原,属亚热带湿润气候, 境内大多数地区夏无酷暑,冬无严寒,素以"春城"而享誉中外。
昆明气候的主要特点有以下几点:
1.春季温暖,干燥少雨,蒸发旺盛,日温变化大;
2.夏无酷暑,雨量集中,且多大雨、暴雨,降水量占全年的60%以上,故易受洪涝灾害;
3.秋季温凉,天高气爽,雨水减少。秋季降温快,天气干燥,多数地区气温要比春季低2℃左右。降水量比夏季减少一半多,但多于冬、春两季,故秋旱较少见;
4.冬无严寒,日照充足,天晴少雨。
5.干、湿季分明。全年降水量在时间分布上,明显地分为干、湿两季。5~10月为雨季,降水量占全年的85%左右;11月至次年4月为干季,降水量仅占全年的15%左右。
昆明金殿太和宫导游词篇四
各位朋友,大家好!今天我们将去游览金殿。金殿坐落在昆明东北郊的鸣凤山上,这里古时禽鸟翔集,鹦鹉尢多,人称鹦鹉山。明代又多有孔雀往飞于此地山林,人们以为是凤凰,因此这里又称为“鸣凤山”“山不在高,有仙则名”。在鸣凤山上有许多故事和传说,到时候我将--给各位讲解。
金殿到了,请大家跟我到“鸣凤胜境”中“寻仙访道”。从山脚过迎仙桥到达“鸣凤胜境”石坊,坊背题书“玉虚孔衢”,玉虚指仙境,孔衢指通道,意思是通往天宫圣境的正道。路边立有“吕祖碑”。上面写着“唐高风正节吕真人洞路”几个大字。相传明朝祟信道教的云南巡抚陈用宾应梦中神仙指引到此相会,遇到一位用两口锅相扣煮芋,绳牵小羊的穷苦老人,只因以貌取人,有眼不识“金镶玉”,辨不出此人正是八仙之一的吕纯阳(吕洞宾),痛失了上天为仙的好机会。痛定思痛,陈巡抚在此建了“迎仙桥”和“吕祖碑”,并认定此地是洞天福地,便修筑了著名的金殿道观。
从迎仙桥到太和宫途经三道“天门”在宽阔的石级两边,松柏森森、林涛阵阵,步行其间感到天高、山大、路宽、林深、心旷神怕,如临仙境。此间意境用一个“放”字便可概括。“迎仙桥”到一天门有七十二级台阶,一天门到二天门经二十六级台阶,它分别代表着道教的三十六天是,七十二地煞,这一百零八位神仙是玄武大帝的属下。当你步入天门之时,就进入了真武帝君的法门,三座天门又代表了在大罗天之下,三十三天之上的太清天、上清天和玉清天,这是道家认为的最高境界。攀登石级,经过三天门,只有不畏艰苦、攀登求道,才能进入道家最高仙境。
现在我们到了太和宫。太和宫门外的红墙上有明代留下的“鹦鹉春深”四个大字,写得饱满圆润、苍劲有力。因鸣凤山又被称为鹦鹉山,山中四季如春,春深似海,所以“鹦鹉春深”就题得恰到好处了。进了太和宫门,一座光彩夺目的棂星门矗立眼前。大家请看根星门上的对联:“天台高百尺,东林竹舞,一半青山一半云;帝道满三千,上谷龙飞,无双玉宇无双地。”此联写景抒情,赞颂了秀丽佳景又颂扬了道家的法力无边。
棂星门一般多建于孔庙之内,棂星指天田星,人们祭祀棂星以祈五谷丰登。门两旁有青狮献瑞、白象呈祥;上端横匾上题有“洞天福地”。棂星、青狮、白象以及道教横匾集中在一起,突出体现了我国寺、观中佛、道、儒三教共处一地的特点。在此建棂星门,表现了道家“尊天必尊道,尊道亦尊天”的思想。
沿着两旁种满迎春花的小道往前走,望着左右长长的配殿,人行其间,各位一定觉得视线、神情在随之收敛,有一种“庭院深深,深几许?”的感觉。这种意境用“收”字便可概括。上完台阶,眼前这座青砖所围的建筑被称作“紫禁城”,是明朝万历年间陈用宾所建,迄今已有四百年的历史。细看城砖有大小之分。为什么会出现这种情况?原来,小城砖是道光年间遭地震损坏后修补上去的,而大城砖为明朝始筑。城上小楼是供奉魁星的“魁星楼”。城门口右边是明朝所植“玛瑙”茶花,花开九芯十八瓣,直径达七寸。左边是一株玉立婷婷、花大如斗的白玉兰。每到花开时节,茶花红似火、灿如霞,浓装艳丽;玉兰花白似玉、洁如雪,淡抹素雅。两花相映,美不胜收。
进入城门,眼前一亮,好一座古香古色,钟毓灵秀的金殿,这就是我们今天观光的核心。金殿并非金造,实乃铜铸。明清时期,云南铜产量全国第一,云南东川等地的铜每年都要运到湖北城陵矶铸钱。因战乱道阻,数年生产的铜都未能运出。鹦鹉山道观道长徐正元呈请世袭黔国公沐昌祚和云南巡抚陈用宾,模仿湖北武当山天柱峰铜殿的式样于明万历三十年(1620__年)铸成了第一座铜殿。铜殿建成之时,辉煌无比,金光耀目,称为“金殿”。明朝后期,云南沐氏家运日衰,认为“铜乃西方之属,能克木(沐)”,竟将其败势归咎于铜殿,于明朝崇帧十年(1637年)将第一座铜殿迁到宾川鸡足山。眼前这座铜殿是平西王吴三桂为巩固自己统治地位,为求助于神道庇佑在清康熙十年(1671年)铸造的。
各位请看:铜殿下筑须弥座式台基,高1.5米,金殿建于两层石砌台基上,第一层为青石砌就,沙石勾栏,栏上浮雕“二十四孝”图,第二层是大理石栏,中间是一条雕有龙风云纹的陛石。独具匠心的须弥座使金殿更加雄伟高大、庄重威严。方形的金殿为仿木结构重檐歇山式建筑,殿高6.7米,宽深同为7.8米,四壁由三十六扇格子门组成,上面铸有龙凤吉祥、花草鱼虫、云龙麒麟等图案,铜殿脊檩上镌有“大清康熙十年岁次辛亥(1671年)大吕月(十二月)十有六日之吉平西亲王吴三桂敬筑”。铜殿四角有盘龙石柱衬托,四周由十六根圆柱支撑,斗拱飞檐、龙飞凤舞、精美无双。这是我国现存最大(占地180平方米),最重(250吨),保存最完好,铸造最精美的铜殿,这是我国的一件国宝,被列为国家级重点保护文物。
金殿是道教中正一道教派的道观。殿中供奉着真武帝君铜像,高1.5米,披发跣足、仗七星剑、执七星旗,着黑衣、踏龟蛇。真武大帝又称玄武。相传在黄帝时期,净乐园善胜皇后梦游御花园,吞下阳光后十四月,三月初三时左胁裂开产下太子,顿时瑞云缭绕,异香芬芳。太子聪明过人,十五岁时受玉清圣祖点化前往太和山修炼,成道后被玉皇册封为“镇天玄武大将军”,统领北方。而真武修炼的太和山也被改称为武当山,取“非真武不足以当此山”之意。传说在周武王伐封的战争中,真武大帝降服了变化为苍龟、巨蛇的水火二魔,归降后的龟蛇屡立战功,被玉皇封为“太玄水精黑灵尊神”和“太玄火精赤灵尊神”,随真武调用。殿中真武两旁龟将勇猛威严,蛇将气字轩昂。一旁有金童持卷、玉女捧印。道教诸神仙都有作为侍从的金童、玉女。而真武的金童玉女特指周公和桃花女。周公以占封为生、开业三十年从无差错。自从遇上桃花女却屡屡不灵,周公知道桃花女功业不浅,然而心中不服,托人说煤将其娶回家中作儿媳准备慢慢收拾。谁知一害再害无一成功,弄得狼狈不堪。真武大帝出面结束其恩怨复归天位,从此他们就当了真武帝的听差兼秘书,掌握法宝、符印,书记三界神仙的功过善恶,成为真武大帝的得力助手。铜殿柱上有联赞道“威武镇南滇,七星耀处河山朗;神灵终北极,一剑飞来海宇清”。铜殿前后各有一匠,前书“南无量寿佛”,后题“北极玄武”一佛一道。佛道结合,又为金殿一奇。铜殿外有左右相对两个铜亭,内奉水、火二将。在殿右前方有一条高10米的铜制旗杆,上悬“日月七星锁山旌”。七星铜旗高悬,象征北极玄天“普护”生灵。旗上铸有“天下太平,风调雨顺,国泰民安”,旗周围有二十八宿。什么是二十八宿呢?早在远古时候,人们将天上的星辰分为二十八个群落称“二十八宿”,按它们位置分为东西南北四个群落,每方为七宿,根据这些星辰排列的形状想象为青龙、白虎、朱雀、玄武(玄是龟、武是蛇),称为“四象”。“四象”被玉皇封为镇守四方的大神。旗子上端有日月,旗中是北斗七星,整个铜旗为镂空镶嵌。七星旗的建筑年代早于现在的铜殿,是陈用宾建筑第一个铜殿时铸造的。
铜殿两侧各有一株明代紫蔽,已有四百年历史。紫薇夏初开花,因花期长而红艳又被称为“百日红”。当年吴三桂同陈圆圆游金殿,当寒冬腊月时,人们在殿外烧火炭,通过铜壁传热,室内温度宜人;到三伏盛夏,两人常坐在紫蔽树下谈笑纳凉。
自进入紫禁城,整个空间急剧收缩、人们的视线和注意力全部聚焦于金殿上,一切的景物都作为金殿的衬托和铺垫,成功地突出了主题,此种意境用个“扬”字便可包括。
铜殿后面这个院落叫“净乐天宫”。中间修建了供奉太上老君的“老君殿”。回廊小院中桂花叶茂枝繁,花开时节,满院飘香。院落建筑石基高大、四周用围墙围起,一个“抑”字包括了此间意境。
归结起来,金殿建筑群包括三宫、四门、十大殿。“放、收、扬、抑”四字诀就包含于绝妙的建筑布局艺术中,一放一收、一扬一抑,突出主体,层次分明,创意新颖,有张有弛。
铜殿北侧是典型的中式四合院,现辟为金殿文物陈列馆。馆内陈列着太和宫保存的明清以来的珍贵文物。包括铜器、瓷器、字画以及真武“伏魔制怪”的七星剑和吴三桂用过的木柄大刀。馆外一字排开,有八个石碑,碑上刻有“紫气东来”、“百鸟朝凤”、“魁星点斗”等反映道家思想的字画。
令人耳目一新的是“中国金殿博览苑”。此苑于1995年建成。苑中仿照我国现存铜殿按1:2比例用珍贵的楠木经仿铜处理建成。它们分别是北京颐和园万寿山宝云图,清乾隆二十年(1755年)建,重207吨;湖北武当山金殿,明永乐十四年(1420__年)建,80多吨;山西五台山铜殿,明万历三十年(1620__年)建,50吨;山东泰山金阙,明万历四十三年(1620__年)建,20余吨。这些金殿设计精美,轩昂巍峨,充分反映了我国劳动人民的勤劳智慧。通过比较,我们也进一步了解到昆明金殿在全国铜殿中首屈一指的地位。参观完博览苑以后我们出南门,过长廓,但见满山的云南油杉,树龄均在百年以上。此处树木苍翠挺拔,花草郁郁葱葱,微风拂来,满园清香,令人心旷神怕。如沿南侧小路进发便可到达“茶花园”。茶花又称山茶,为云南八大名花之首,也是昆明市的市花。茶花园内植茶l万多株,占地150亩。园中荟萃了云南、广西还有华东等地精品名种。如“狮子头”、“恨天高”、“早桃红”更为难得的还有号称茶花皇后的“金花茶”。金殿茶花园占地面积之大,茶花品种之多,均为全国之冠。每当春寒料峭,满山遍野山茶怒放,花大如斗,红白相间。正所谓“万紫干红,春色满园”,展示了“云南山茶甲天下”的风采。
山坡上绿草如茵,遥望草坪上“双连六角鸳鸯亭”掩映于茂林修竹之间。在小路两旁,一座座仿青铜雕塑作品映人眼帘,这是金殿公园新建的青铜文化景廊。
早在3000多年前的我国商代晚期,云南就有了铜矿的开采冶炼技术,开始铸造和使用青铜器。到了距今20__年前后,从战国至西汉时期,出现了高度发达的古滇国青铜文化,它是云南青铜文化的鼎盛时期。我们现在所看到的这些铜鼓、贮贝器铜笙、铜枕、铜俎就是那个鼎盛时期青铜器的仿制品。我们首先看一看滇王金印。1956年11月,在晋宁石寨山古墓群的发掘中,发现了一颗阴刻着“滇王之印”四个篆字的金印,重90克,印面边长2.4厘米见方。上有蛇钮印把,大家仔细看:蛇首昂起,蛇身盘曲,背有鳞纹,十分生动、精美。这一重大发现,证明了古滇王国存在的历史事实,也进一步证实了大史学家司马迁在《史记·西南夷列传》中记载的“庄娇王滇”,以及汉武帝赐“滇王金印”的真实性。大家再过来看,这就是出土于江川李家山古墓中著名的牛虎铜案:一只凶恶的老虎咬住了牛尾,母牛腹下保护着一只小牛。它反映了“不畏强暴”和母爱的主题思想。整个铜案构图新颖,造型完美,重心平稳,动静统一。这个铜案是古代祭祀时用于放置祭品的器物。据说著名物理学家钱学森看过实物后给了极高的评价,他指出:战国时期的这件青铜铸器表明当时的科学特别是力学水平已经十分高超,雕铸品用后尾的虎与硕大牛头构成了平衡,而腹下的小牛又降低了铜案的重心,真是妙不可言。“牛虎铜案”堪称青铜器的珍品,也是云南青铜文化代表和象征。奇特而精美的云南青铜器,有着很高的历史价值、艺术价值和科学价值,是中华民族历史文化遗产宝库中的奇丽瑰宝。
继续向前,只见一座金碧辉煌,巍峨挺拔的钟楼雄峙于鸣凤山巅,此楼建于1983年,楼高30米,共3层,每层12个飞檐翘角,犹如36只展翅欲飞的“鸣凤”。楼上悬挂着一口铜钟,高3.5米,口径周长6.7米,重14吨,铜钟上铸有“大明永乐二十一年岁在癸卯吉日仲春造”距今已有570多年历史。此钟原排中国古代大钟的第三位:第一为北京大钟寺大钟,铸于明永乐二年(1420__年)重46吨,第二为南京大钟亭大钟,铸于明洪武二十一年(1392年)重23吨。到了1989年,经测定,北京钟楼上的大钟重63吨为“新钟王”,它铸于永乐十八年(1420__年)。这样昆明金殿的大钟退居第四。此钟曾悬挂在昆明宣化楼上,用来报警报时。为了更好保护这一文物,政府拨专款修此钟楼。刚才有一团友提出:为什么永乐年间有这么多大钟?究其原因,在于燕王朱棣借“清君侧”而发动“靖难之役”夺得皇位。战争中死难的将士百姓无数,明成祖上台后又施行“瓜蔓抄”,滥杀建文帝的文武大臣,受株连死伤者数万人之多。为稳定人心,巩固皇位,遂大作水陆道场超度亡灵。永乐大钟就是那个特殊年代的产物。钟内外大都铸满经咒,据说祭祀祈祷时,每敲钟一下,就等于念钟上经文一遍,以此来超度灵魂。上行下效,一时间铸钟之风盛行全国。
各位团友,今天感觉不虚此行吧?郭沫若先生游完金殿后曾赋诗一首,我把它作为金殿之游的总结:
天门开胜景,不觉道途赊;
金殿千秋业,红梅几树花。
茶香清椅席,松籁净尘沙;
蝶翅迎风舞,山头日已斜。
昆明金殿太和宫导游词篇五
各位朋友,大家好!
今天我们将去游览金殿。金殿坐落在昆明东北郊的鸣凤山上,这里古时禽鸟翔集,鹦鹉尢多,人称鹦鹉山。明代又多有孔雀往飞于此地山林,人们以为是凤凰,因此这里又称为“鸣凤山”“山不在高,有仙则名”。在鸣凤山上有许多故事和传说,到时候我将--给各位讲解。
金殿到了,请大家跟我到“鸣凤胜境”中“寻仙访道”。从山脚过迎仙桥到达“鸣凤胜境”石坊,坊背题书“玉虚孔衢”,玉虚指仙境,孔衢指通道,意思是通往天宫圣境的正道。路边立有“吕祖碑”。上面写着“唐高风正节吕真人洞路”几个大字。相传明朝祟信道教的云南巡抚陈用宾应梦中神仙指引到此相会,遇到一位用两口锅相扣煮芋,绳牵小羊的穷苦老人,只因以貌取人,有眼不识“金镶玉”,辨不出此人正是八仙之一的吕纯阳(吕洞宾),痛失了上天为仙的好机会。痛定思痛,陈巡抚在此建了“迎仙桥”和“吕祖碑”,并认定此地是洞天福地,便修筑了著名的金殿道观。
从迎仙桥到太和宫途经三道“天门”在宽阔的石级两边,松柏森森、林涛阵阵,步行其间感到天高、山大、路宽、林深、心旷神怕,如临仙境。此间意境用一个“放”字便可概括。“迎仙桥”到一天门有七十二级台阶,一天门到二天门经二十六级台阶,它分别代表着道教的三十六天是,七十二地煞,这一百零八位神仙是玄武大帝的属下。当你步入天门之时,就进入了真武帝君的法门,三座天门又代表了在大罗天之下,三十三天之上的太清天、上清天和玉清天,这是道家认为的最高境界。攀登石级,经过三天门,只有不畏艰苦、攀登求道,才能进入道家最高仙境。
现在我们到了太和宫。太和宫门外的红墙上有明代留下的“鹦鹉春深”四个大字,写得饱满圆润、苍劲有力。因鸣凤山又被称为鹦鹉山,山中四季如春,春深似海,所以“鹦鹉春深”就题得恰到好处了。进了太和宫门,一座光彩夺目的棂星门矗立眼前。大家请看根星门上的对联:“天台高百尺,东林竹舞,一半青山一半云;帝道满三千,上谷龙飞,无双玉宇无双地。”此联写景抒情,赞颂了秀丽佳景又颂扬了道家的法力无边。
棂星门一般多建于孔庙之内,棂星指天田星,人们祭祀棂星以祈五谷丰登。门两旁有青狮献瑞、白象呈祥;上端横匾上题有“洞天福地”。棂星、青狮、白象以及道教横匾集中在一起,突出体现了我国寺、观中佛、道、儒三教共处一地的特点。在此建棂星门,表现了道家“尊天必尊道,尊道亦尊天”的思想。
沿着两旁种满迎春花的小道往前走,望着左右长长的配殿,山东导游词,人行其间,各位一定觉得视线、神情在随之收敛,有一种“庭院深深,深几许?”的感觉。这种意境用“收”字便可概括。上完台阶,眼前这座青砖所围的建筑被称作“紫禁城”,是明朝万历年间陈用宾所建,迄今已有四百年的历史。细看城砖有大小之分。为什么会出现这种情况?原来,小城砖是道光年间遭地震损坏后修补上去的,而大城砖为明朝始筑。城上小楼是供奉魁星的“魁星楼”。城门口右边是明朝所植“玛瑙”茶花,花开九芯十八瓣,直径达七寸。左边是一株玉立婷婷、花大如斗的白玉兰。每到花开时节,茶花红似火、灿如霞,浓装艳丽;玉兰花白似玉、洁如雪,淡抹素雅。两花相映,美不胜收。
进入城门,眼前一亮,好一座古香古色,钟毓灵秀的金殿,这就是我们今天观光的核心。金殿并非金造,实乃铜铸。明清时期,云南铜产量全国第一,云南东川等地的铜每年都要运到湖北城陵矶铸钱。因战乱道阻,数年生产的铜都未能运出。鹦鹉山道观道长徐正元呈请世袭黔国公沐昌祚和云南巡抚陈用宾,模仿湖北武当山天柱峰铜殿的式样于明万历三十年(1602年)铸成了第一座铜殿。铜殿建成之时,辉煌无比,金光耀目,称为“金殿”。明朝后期,云南沐氏家运日衰,认为“铜乃西方之属,能克木(沐)”,竟将其败势归咎于铜殿,于明朝崇帧十年(1637年)将第一座铜殿迁到宾川鸡足山。眼前这座铜殿是平西王吴三桂为巩固自己统治地位,为求助于神道庇佑在清康熙十年(1671年)铸造的。
各位请看:铜殿下筑须弥座式台基,高1.5米,金殿建于两层石砌台基上,第一层为青石砌就,沙石勾栏,栏上浮雕“二十四孝”图,第二层是大理石栏,中间是一条雕有龙风云纹的陛石。独具匠心的须弥座使金殿更加雄伟高大、庄重威严。方形的金殿为仿木结构重檐歇山式建筑,殿高6.7米,宽深同为7.8米,四壁由三十六扇格子门组成,上面铸有龙凤吉祥、花草鱼虫、云龙麒麟等图案,铜殿脊檩上镌有“大清康熙十年岁次辛亥(1671年)大吕月(十二月)十有六日之吉平西亲王吴三桂敬筑”。铜殿四角有盘龙石柱衬托,四周由十六根圆柱支撑,斗拱飞檐、龙飞凤舞、精美无双。这是我国现存最大(占地180平方米),最重(250吨),保存最完好,铸造最精美的铜殿,这是我国的一件国宝,被列为国家级重点保护文物。
金殿是道教中正一道教派的道观。殿中供奉着真武帝君铜像,高1.5米,披发跣足、仗七星剑、执七星旗,着黑衣、踏龟蛇。真武大帝又称玄武。相传在黄帝时期,净乐园善胜皇后梦游御花园,吞下阳光后十四月,三月初三时左胁裂开产下太子,顿时瑞云缭绕,异香芬芳。太子聪明过人,十五岁时受玉清圣祖点化前往太和山修炼,成道后被玉皇册封为“镇天玄武大将军”,统领北方。而真武修炼的太和山也被改称为武当山,取“非真武不足以当此山”之意。传说在周武王伐封的战争中,真武大帝降服了变化为苍龟、巨蛇的.水火二魔,归降后的龟蛇屡立战功,被玉皇封为“太玄水精黑灵尊神”和“太玄火精赤灵尊神”,随真武调用。殿中真武两旁龟将勇猛威严,蛇将气字轩昂。一旁有金童持卷、玉女捧印。道教诸神仙都有作为侍从的金童、玉女。而真武的金童玉女特指周公和桃花女。周公以占封为生、开业三十年从无差错。自从遇上桃花女却屡屡不灵,周公知道桃花女功业不浅,然而心中不服,托人说煤将其娶回家中作儿媳准备慢慢收拾。谁知一害再害无一成功,弄得狼狈不堪。真武大帝出面结束其恩怨复归天位,从此他们就当了真武帝的听差兼秘书,掌握法宝、符印,书记三界神仙的功过善恶,成为真武大帝的得力助手。铜殿柱上有联赞道“威武镇南滇,七星耀处河山朗;神灵终北极,一剑飞来海宇清”。铜殿前后各有一匠,前书“南无量寿佛”,后题“北极玄武”一佛一道。佛道结合,又为金殿一奇。铜殿外有左右相对两个铜亭,内奉水、火二将。在殿右前方有一条高10米的铜制旗杆,上悬“日月七星锁山旌”。七星铜旗高悬,象征北极玄天“普护”生灵。旗上铸有“天下太平,风调雨顺,国泰民安”,旗周围有二十八宿。什么是二十八宿呢?早在远古时候,人们将天上的星辰分为二十八个群落称“二十八宿”,按它们位置分为东西南北四个群落,每方为七宿,根据这些星辰排列的形状想象为青龙、白虎、朱雀、玄武(玄是龟、武是蛇),称为“四象”。“四象”被玉皇封为镇守四方的大神。旗子上端有日月,旗中是北斗七星,整个铜旗为镂空镶嵌。七星旗的建筑年代早于现在的铜殿,是陈用宾建筑第一个铜殿时铸造的。
昆明金殿太和宫导游词篇六
太和宫金殿,又名铜瓦寺,坐落在昆明城东北郊鸣凤山,俗名鹦鹉山。鸣凤山原名相度山,明万历年间始创太和宫金殿以后,改称鸣凤山,系明代以来云南著名的道观风景名胜区。
清光绪十六年(1890年)舒藻《重修太和宫碑记》详细记载了太和宫创建的历史:“滇南苴兰(昆明)会垣东关外,距城十五里许,有山鸣凤,又俗名鹦鹉山。前明万历壬寅年(1602年),道士徐正元叩请云南巡抚陈公用宾,会同黔国公沐公昌祚,右都督沐公睿,御使刘公会于是山之巅,仿照湖广武当山七十二峰之中峰修筑紫禁城,冶铜为殿,铸供真武祖师金身。名其宫曰‘太和’,亦仿照武当山中峰宫名也。其时并建三元、环翠二宫,所供圣神仙佛,各有专司,瞻拜者历历可溯。而其殿宇,概以‘太和宫’统之。其地左挹华山之秀,金马腾辉;右临昆海之滨,碧鸡焕彩,洵为滇南一胜境也。乡人称之或曰金殿,或曰金顶,任其信口而出耳。”
这段碑文依据史料,叙述了仿湖北武当山始创昆明太和宫金殿的时间、创始人、冶铜为殿、供奉真武金身的道观规模,以及鸣凤山的山势。明万历三十年(1602年)道士徐正元“叩请云南巡抚陈用宾”,陈用宾会同黔国公沐昌祚、右都督沐睿、御使刘会,同登鸣凤山巅,商定仿武当山中峰兴建太和宫。这与明万历甲辰年(1604年)正月太和宫创始人陈用宾所撰《鼎建太和宫记》是一致的。舒藻的碑记用白话叙述,通俗易读。陈用宾的碑记文言纪事,不容易读。
舒藻碑文中所说:“其时并建三元、环翠二宫”一段不准确。其实创建太和宫前七年,就已建“环翠宫”。陈用宾撰《环翠宫记》称:“余抚滇之三年,命官于鸣凤山建环翠宫,其中为阁,祀吕师(吕洞宾),殿有二,王、陶天君,何、柳二仙并祀阁上。”陈用宾,福建晋江人,明进士,万历二十一年(1593年)以右佥都御使巡抚云南。陈用宾“抚滇之三年”,即万历二十三年(1595年),他“命官于鸣凤山建环翠宫”。万历三十年(1602年)“叩请”陈用宾兴建太和宫金殿的“道士徐正元”,就是环翠宫的道士。
正如陈用宾《鼎建太和宫记》所述:“及抚滇之九年”,即万历三十年(1602年),陈用宾“偕卜胜东城,相度山原间几一舍许无当者,延伫环望,真气英英,连蜷环翠宫左,扪萝视之,适彩雉从中盘起,玉局宛然,无亦光岳之閟有待欤?”陈用宾偕沐昌祚、沐睿、刘会等登相度山,卜胜选址,已见山势“连蜷环翠宫左”。这清楚说明,明万历三十年陈用宾为太和宫选址时,已有环翠宫。太和宫金殿、三元宫于明万历三十年(1602年)动工兴建,“始事竣工,俱以王正之月,甫一载而缮定”。“万历甲辰(1604年)岁春正月吉旦”,陈用宾撰立《鼎建太和宫记》。
民间传说陈用宾曾在鸣凤山“三遇吕洞宾”,是吕仙引示他鸣凤山是“洞天福地”,所以他“抚滇之三年”即“命官于鸣凤山建环翠宫”,“其中为阁祀吕师”。环翠宫建成后,陈用宾曾撰楹联:
春梦惯迷人,一品朝衣,误了九寰仙骨,鸡鸣紫陌,马踏红尘,军门向那头跳出?
空山曾约伴,七闽片语,相邀六诏杯茶,剑影横天,笛声吹海,先生从何处飞来!
陈用宾身居云南“军门巡抚”,既迷恋官场“一品朝衣”,又向往道教“九寰仙骨”,矛盾的心情,只有请问“剑影横天,笛声吹海”飞来的吕仙人,他该“向那头跳出”?
陈用宾《建太和宫记》开头有这样一段话:“考玄帝天乙之精,乘玄枵当帝座,迹最著于太和,贞观而还,代能尊祀。我成祖文皇帝穆有遐思,式廓其制,千古让隆焉……”说是真武玄帝系“天乙之精,乘玄枵当帝座”,真武神迹,太和山(即武当山)最著名。从唐贞观年间以来,世代尊祀。明成祖朱棣崇信真武,敕令大修武当山,千古隆重奉祀真武。武当山有“真武神,永乐像”的传说,以后天下真武宫都按这“永乐像”塑真武。
明崇祯十年(1637年)金殿移到宾川鸡足山,史志碑记所载是一致的。明崇祯十年(1637年)云南巡抚张凤翮将铜殿移到宾川鸡足山天柱峰。天柱峰为此又称“金顶”。鸡足山铜殿毁于1966年“___”“扫四旧”期间。张凤翮移铜殿时,太和宫铜殿的基座、下层平台砂石浮雕栏杆未拆,保存至今。
清康熙年间重建鸣凤山太和宫铜殿,“范铜至五百余万之多”(250吨)。1980年清洗铜殿烟尘污垢时,发现铜殿正梁上通体被烟垢覆盖的铭文,梁中间的字被藻井遮盖,我爬上去看是“大清康熙十年岁次辛亥大吕月十有六日之吉平西亲王吴三桂敬筑”。铭文证实清康熙九年(1670年)吴三桂修葺太和宫,重建真武铜殿,铜铸神像,竖“铜幡竿十余丈,亭亭特立”。康熙十年(1671年)十月十六日竣工落成。因吴三桂康熙十二年(1673年)举兵反清,故方志碑记只称“清康熙九年重铸”,回避是吴三桂重铸铜殿。
吴三桂重建真武铜殿后,铸了一口“七星宝剑”悬挂在铜殿内,这就是碑记中所载真武“慧剑高悬,常伏魔而制怪”。吴三桂又将其使用过的一把木柄大刀,重12斤(6公斤)留在太和宫,以炫耀其武威。
铜殿正面,清康熙三十三年甲戌(1694年)云贵总督王继文书悬“南无无量寿佛”铜匾。“无量寿佛”即“阿弥陀佛”,不少人感到疑惑,一代名儒的云贵总督,为什么在真武道宫挂佛教匾?武当山记载,永乐十四(1416年)武当天柱峰顶建真武铜殿时,峰巅咫尺地盘上已有佛教无量寿佛殿,佛道互不相让。得知建铜殿是圣上旨意,佛家折中,“让地不让佛”,真武殿上挂“无量寿佛”匾,朝拜真武同时,也颂“南无无量寿佛”。鸣凤山太和宫仿武当山中峰兴建,王继文依据武当山典故悬匾。
清道光二十五年(1845年)《重修二天门碑记》记载了清代昆明两次地震的情况:“乾隆年间,滇省地震,星旗救劫,厥有灵徵”。这次地震影响不大。道光“十三年(1833年)七月二十三日,滇地大震,復得殿宇牌坊,客座茶房,震摇摧坏。”太和宫更大的劫难是咸丰年间,太和宫毁于兵燹,三元宫化为灰烬。每一次损坏后,都不同程度地进行了修缮。其中,光绪十六年(1890年)至光绪三十一年(1905年)前后十五年间,太和宫住持李明清劝募“缙绅王炽、余安转禀督办云南矿物、前巡抚唐公炯,倡铸铜一万斤,并遍约同人,量力捐助。铸造亭子、侍座神像、格扇瓦片,并重修山门、牌坊、殿宇,众作新之。”
太和宫金殿于1950年军事接管,定为“昆明市金殿名胜区”。先后隶属文教局、建设局、文化局、园林局管理。1966年“___”“扫四旧”期间,各殿泥塑神像被破坏,殿宇坍塌,荒烟蔓草。1968年又将太和宫划属昆明力车胎厂作宿舍,1970年由昆明市城建局收回。
逐年修复古建筑,重建雷神殿、老君殿、三丰殿,翻修三座天门、棂星门,新建长廊亭台,局部维修明代城墙。1983年兴建山巅钟楼,保护原昆明城宣化楼之明代永乐大钟。
1983年至1991年,在鸣凤山东面、南面新征土地273亩,兴建占地500亩规模的“昆明园林植物园”。园林植物园分为十二个专类花卉园区茶花园、温室花卉区、杜鹃园、水景园、木兰园、蔷薇园、竹类植物园、裸籽植物区、珍稀濒危植物区、造园示范区、鹦鹉园(盆景区)和雪松草坪园。省、市政府先后投资达800余万元。
为迎接1999年在昆明举办的世界园艺博览会,1997年至1999年,市政府先后在鸣凤山金殿投资20__万元,全面维修太和宫古建筑群,整修钟楼,开辟钟楼旅游服务区,兴建大型观赏温室,新建杜鹃精品园,开发兰圃和蕨类植物园,重建秋园餐厅,改造旅游招待所,重建园内旅游厕所。在金殿自筹资金兴建“中国金殿博览苑”的基础上,进一步开发金殿青铜文化旅游景点……这次整治修建,为太和宫金殿创建四百年来规模最大的一次修葺和兴建。金殿名胜区1999年跻身云南省一流风景名胜区。